わんこと錬金術師 小話










チャイムを押しても誰も出てこない事にヒューズは首を傾げた。
確かに、ロイだけだった頃はそれも当たり前だったが、今は違う。
ヒューズが合鍵を使わずにチャイムを押せば、必ず金色の番犬が面倒そうな顔で出迎えてくれるのだ。
だというのに。
今日はいつまで経ってもやってくる気配はない。
読書をすると言っていた親友がわざわざ休日に出掛けるとも思えず。
やれやれと、ヒューズは最近使わなくなっていた合鍵を取り出した。





「お。ロイ、楽しそうな事してんな」
「いいだろう」
でもお前にはやらせてやらん。
ふふんと何故か偉そうにそう言って、ロイはまた作業に戻ってしまった。
突然現れたヒューズの姿に驚く様子がないのは、恐らく優秀な彼の飼い犬がヒューズの来訪を告げたからだろう。
鼻歌でも歌い出しそうな程上機嫌なロイが手を動かす度に、辺りに小さな泡が飛ぶ。

今彼らが居る場所はバスルームで。
ロイは明らかに自分のものではないサイズのシャツ――多分ハボックのものだ――を腕まくりして羽織っていた。
通常、服を着たままバスルームに入る理由はあまり多くない。
例えば掃除の為だと言うなら分かるが、あいにくロイはそんな面倒な事をするような人間ではない。
あと理由を挙げるとすれば――これもおよそあり得ない事ではあるが、何かを洗う為位だろう。
そう。結論だけ言ってしまえば。
ロイは飼い犬を洗っていたのだった。

不器用な手つきで洗われている大型犬はうんざりとした表情で苦行に耐えている。
誰の目にも迷惑していると分かるはずなのだが、彼の飼い主には欠片も通じていないらしい。
「ハボック、お前泥遊びでもしたのか?」
「…そんな事するわけないと思いませんか」
ガキじゃあるまいし。
「だよな」
ハボックの答えに頷いて、ヒューズは親友に目を向けた。
ロイは楽しそうにハボックの毛並みに泡を絡ませながら。
「ハボックを見ていたら急に洗いたくなってな」
と、珍しく…もないかもしれないが、うきうきしているのがよく分かる声でその視線に答える。
「…そうか」
わんこも災難だな。

――しかし本当に楽しそうだな。

ぐりぐりと乱暴に洗われているハボックはともかく、洗っているロイは常にないほど楽しげで。
ヒューズも何となくやってみたくなってくる。
「……」
「見ててもやらせてやらんぞ」
その不穏(?)な空気に気付いたロイが睨み付けてそう口にしたが。
「そう言うなよ」
言葉と同時にひょいっと泡の中に手を突っ込むヒューズの素早さには、さすがに牽制する暇がなかったらしい。
「あ、こら」
そう言って、ヒューズの腕を押し退けようとしている。
「…アンタらいい加減にしてください」
とうとう我慢できなくなったらしく、男二人に洗われるなんて冗談じゃないと、ハボックは彼らを睨みつけた。
だが、白い泡だらけでは迫力も何もあったものではない。
「まあそう言うなよ」
耳付近を丁寧に洗っていくヒューズの指に、ハボックは複雑な顔をして押し黙った。
気持ち良いけど嫌だ。嫌だけど気持ち良い。
彼の頭の中ではそんな葛藤がぐるぐると廻っている。
結局。
ロイがやめてくれる訳でないのなら、ロイより数段器用なヒューズに手伝ってもらった方が早く済むだろうと結論付けて。
ハボックは溜息をついて諦め気味に目を閉じた。
「…しっかしわんこはきれいだよな。犬臭かった事ないし」
「…毎日風呂入ってるんだから当たり前です」
「どうやって?まさかいつもロイと一緒か?」
「んなわけないでしょうが…アンタ、俺が人型になれるの知ってるでしょうが」
普段どうやって炊事洗濯やってると思ってんですか。
「洗ってやると言っているのに風呂くらい一人…一匹か?…で入らせろというんだぞ。こいつは」
ハボの癖に生意気だ。
「俺は男と一緒に風呂に入りたいなんて思いません」
「…まあ、確かにな」
俺も入りたくない。
「私だって男と一緒に入る趣味はないぞ」
きっぱりとそう言い放ったロイに。
ハボックもヒューズも呆れて彼に視線を向ける。
「……俺はオスです」
「知ってる」
「なら」
「ハボックは犬だからいいんだ」
普段自分でもそう言っているだろう?
してやったりという顔で笑う主人に、ハボックは唸った。
ある事に関しては絶対に犬扱いしようとしないくせに。
「…こんな時だけ都合のいい事を」
明らかに機嫌を損ねた飼い犬に、ロイは自分の反撃が成功した事を悟り満足げな笑みを浮かべ。
泡まみれになるのも構わずハボックの身体を抱きしめて囁く。
「大好きだぞ」
「はいはい」

「…………」

その様子を傍観していたヒューズはげっそりした表情で洗っていた手を放し立ち上がった。
その心境は”お腹一杯、もう充分”といったところだろう。
「あれ、もういいんですか?」
急に立ち上がったヒューズに首を傾げ問うハボックに、軽く手を振って答える。
「いや、何かもう腹一杯で勘弁してくれって感じだ」
「……はあ…」
そんな彼に何が”腹一杯”なのか理解したハボックはそれ以上何も言えず、複雑な表情で耳を伏せて。
「すいませんね」と小さく呟いた。
そんな中、一人楽しく(他の一切を無視して)ハボックを洗っていたロイは、ふと思い出したように顔を上げ。
「ハボック、洗い終わったらドライヤーにブラッシングもするぞ」
と、それはもう喜色満面の笑みでそう言った。
「……俺に拒否権は?」
「ない」
「…………」


ハボックの試練はまだまだ続きそうな気配だった。



中央時代。この話のロイさんは不器用設定。






「忙しそうだな、わんこ」
後ろからかけられたその声に、ハボック――仕事中なので人型だ――は心底迷惑そうに低く唸った。
人の寄り付かない資料室の奥の棚までやって来る人物をハボックは二人しか知らない。
一人は上司兼飼い主のロイで。
もう一人は今声をかけて来た彼である。
「何しに来たんですか…」
振り返らぬままにそうと問えば、
「何って仕事に決まってんだろうが」
そう言って、彼――ヒューズ何故かふんぞり返る。
その姿に溜息を禁じえない。

――何でこう俺の側にいるのは変な人ばっかりなんだ。

「じゃあさっさと行って下さいよ。今はあんたの相手はしませんよ」
「なんだ、ずいぶんご機嫌斜めだな」
「間抜けで無能な誰かさんのせいで連日徹夜なんですよ」
デスクワークに飽きた上司兼飼い主に嫌がらせとしか思えない量の資料探しを命じられたり。
その資料を捜して駆けずり回っている間に当の本人が行方をくらまして、捜索に更に余計な時間を費やしたり。
定時ギリギリになって翌日締め切りの書類が束で見つかったり。
必死でそれらを片付けている最中に事件が発生したり。
現場に勝手に一人で突入した上司のフォローをさせられたり。
数え上げるときりがないが、これらのほぼ全てがたった一人が原因なのである。
ハボックでなくても機嫌が悪くなるだろう――事実、中尉達も非常にピリピリしているのが現状なのだ。
「まあ、大佐達はちゃんと仮眠を取ってますから大丈夫だと思いますよ」
資料を棚に戻す手は止めぬまま、ヒューズが心配しないようにそう言って、
「その分俺が動けばいいんだし」
と付け足すように呟く。
そんなハボックの横顔を何をするでもなく眺めていたヒューズだったが、よく見れば顔色が心なしか青い事に気がついた。
さらに、時折小さく苦しそうに息を吐き出している。
平時の彼にはありえないその様子に、ヒューズは眉を顰めた。
「何日目だ?」
唐突な問いに、それでもハボックは意味を理解し答えを返す。
「今日で四日目です」
「…ありえねぇ…」
いくらなんでもそれは拙いだろ。
「まったくっスよ。いくら人間より体力あるったっていい加減限度ってもんが…っ」
文句を言いながら本を棚に戻そうと手を伸ばしたハボックだったが。
急にバランスを崩して倒れ込みそうになる。
それを間一髪で支えたヒューズの腕に縋る様な体勢のまま、ハボックは目を伏せ辛そうに大きく息をつく。
「おい、大丈夫か?」
「だいぶキテますね…」
ちょっと眩暈がします。
「顔色悪いぞ」
覗き込んだ瞳は繕う余裕すらないのか疲れの色が見て取れる。
疲弊した肉体と精神が睡眠を欲しているのを無理に捻じ伏せているのだろう。
実際限界に近付いているはずなのに、それでもハボックは、
「もう少しなんで」
と言い、無理に身体を起こそうとする。
「っ」
途端、再び眩暈に襲われたのか結局またヒューズの腕に縋る形になる。
「ぶっ倒れたいのか?」
呆れた声でのヒューズの問いに、彼は眉間に皺を寄せ低く唸った。
だが、これ以上は無理だと本人もよく理解しているのだろう。
「………じゃあ、悪いんですけど少しだけ寝かせて下さい」
諦める様に目を閉じて、暫くの沈黙の後で静かにそう口にする。
「…ここでか?」
「仮眠室じゃ落ち着いて眠れないんですよ」
「…分かったよ」
うっすらと開かれた青い瞳は既に半分まどろみの中にあって。
ヒューズは仕方ないとばかりに頷いてやった。
その彼の様子にハボックは少しすまなそうな顔をして。
「すみません」
それだけ言うと、そのまま目を閉じてしまう。
急に腕に増した重みに、ヒューズは一瞬状況を判断出来なかったがすぐに大慌てで叫ぶ。
「って、おい!このまま寝るのかよ!」
だが、腕の中の人物が目を覚ます気配はなく。
立ったままその体重を支える事になってしまったヒューズは困り果てて天井を見上げた。
次いで下ろした視線に安心しきった表情で眠る姿を捉えてしまい。
自分の腕に縋ったまま小さな寝息を立てるハボックに、ヒューズは溜息をついてそっと床に座り込んだ。
ほとんど抱き付かれるような体勢なのだが、穏やかな寝顔を見ていると”もういいか”という気になってくる。
「なんつーか…俺も甘いよなぁ」
そう言ってハボックの金色の髪を梳いて、ヒューズはもう一度大きな溜息をついた。



この後ロイが彼らを発見し一騒動起こることになるのだが、まあそれは余談である。



ヒュハボではないよ。

この話で友人のS嬢は「自分が枕にされるのは嫌いだけど人を枕にするのはいいんだ?」と…。
聞いた瞬間に、

「ヒューズを枕にするくらいなら私にさせろ!」
「男は嫌です」
「ヒューズも男だろうが!」
「あの時は不可抗力って言うやつです。それにアンタの場合下心ありすぎだし」

みたいな会話が浮かんだ自分がもういろいろダメっぽい…






『ロイ、聞いてますか?』

「…聞いている」

『ロイ?』

「………」

『ろーい?』

「…何だ」

『ひょっとして、拗ねてます?』

「どうだろうな」

『ロイ、一週間だけの辛抱ですから』

「…一週間も、だぞ」

『…あっという間ですよ』

「…………」

『大好きですよ、ロイ』

「……っ」

『また明日。電話しますね』

かしゃん、と。
受話器を置いて。
それでも未練がましくそれを見続ける自分に。
ロイは「どうしようもないな」と一人呟いた。












※たかが1週間、されど1週間。


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