わんこと錬金術師 小話










『ジャン』

「……バル?」
優しく、懐かしい声が自分を呼んだ気がして。
ハボックは目を開けた。
辺りを見回してみるが、そこには暖かい日差しが差し込む庭が広がっているだけで。
「…………」
気のせいだろうと、また前足に顎を乗せた。
大体、あの人はもういない。
あの優しい声が自分を呼ぶことはもう二度とないのだ。
ハボックは悲しげに目を伏せる。

『死んだ者は甦らない。』

ハボックにそう教えたのは彼だった。
ハボックを創り、育て、生きる術と錬金術を教えた彼は、もうこの世にはいない。
我侭で自分勝手で、己の生きたいように生きていた人だったけれど。
ハボックはそんな彼が嫌いではなかったのだ。
むしろ大好きだったと言えるだろう。

――思えば、あの人とロイはよく似ている。

そう思って、ハボックは笑った。
「まあ、ロイの方が何倍も手がかかるんだけどな」
くすくす笑うのにあわせて、尻尾がパタパタと動く。
「それに、ああ見えて結構かわいい」
あの人にはかわいい所なんかなかった。
そんな事を考えていた時。
「ハボック!」
強く、はっきりとした声で名を呼ばれた。
聞き慣れたそれに振り返れば、予想通りロイがいて。
「帰るぞ!」
さっさと来い、と手を差し伸べていた。
「…どうした?調子でも悪いのか?」
なかなか起き上がろうとしないハボックに首を傾げるロイの、その姿に目を細めて。
ゆったりとした動作で立ち上がったハボックは。
「いえ…お疲れ様です、大佐」
そう言って、幸せそうに尻尾を振った。






しんと静まり返った部屋の中、ヒューズは慎重に歩を進めた。
物が崩れる大きな音がしたのはつい先程の事で。
またこの家の主が不注意で本棚を倒したのかと思ったが、万が一、という事もある。
何しろ、この家の主――ロイ・マスタング(軍人、地位は大佐)は多くのテロリスト、ついでに個人的な恨みを買った相手から、その命を狙われているのだ。
用心しつつ書斎に踏み込んだヒューズの第一声は、
「…何してんだ、お前ら?」
だった。
彼の目の前には崩れた本の下敷きになるロイと、その下敷きになった大型犬――名前はハボックだ、の姿があって。
元から汚かった部屋は益々手の施しようのない有様になっていた。
「…何をしているかなど見れば分かるだろう。さっさと助けろ」
「何威張ってんですか。こういう時は助けてくださいでしょう」
憮然とした表情で口にするロイを、ハボックが呆れた目で見上げる。
「大体、アンタが余計なことするからこんな事になったんでしょうが」
「私が悪いというのか?」
「アンタ以外の誰が悪いんですか。俺が取ってあげますって言ってるのに届きもしない棚に」
「うるさいぞ、犬の分際で」
「犬でも分不相応な事はしない分、アンタよりはマシですよ」
「………ハボの癖に生意気だ」
本に埋もれたまま――ハボックに至ってはロイに下敷きにされたままだ――で、醜く言い争う二人に、ヒューズは小さく溜息をつく。
「お前らいい加減にしろよ…」
そう言いながら本を退けてやると、まずロイが這い出し、その後のんびりとハボックが身を起こす。
毛についた埃を身震いして落として自分たちが埋もれていた本の山に目を遣り、一言。
「どうするんですか?」
二人と一匹の目の前に広がるのは本の山。
「ハボック、片付けろ」
「やですよ」
「俺も嫌だぞ」
「「「…………」」」
――どうしたものか。
そう思うが。
いくら考えても片付ける以外に手段があるはずもなく。
「仕方ないな」
「…やっぱりそれしかないっスか…」
「ま、俺も手伝ってやるから」

二人と一匹は大きく溜息をついて。
諦めて、部屋の掃除に取り掛かった。






「ハボック、お前さん字が読めたのか」
ヒューズのその言葉にお愛想程度に尻尾を振って、ハボックは振り向きもせずに新聞に視線を走らせている。
犬が真剣に文字を読んでいる姿を目にする日が来るとは思わなかった。
そう思いつつ、横に座る。
それでも視線をよこさない大型犬は、前足と鼻を器用に使ってページを捲ってみせた。
「人と暮らす犬はある程度の人語を理解できる。だから、キメラである俺が字を読んだとしても不思議はないと思いますよ」
「…そういうもんか?」
「そう思えば納得しやすいでしょう?」
「まあ、確かにな」
そこで漸く、ハボックはヒューズに視線を向けた。
「何か用ですか?」
「いや別に。ロイは?」
「料理中」
この家の主の所在を聞いたヒューズにハボックが返した答えがそれで。
「…は?」
その答えにヒューズは間抜けな声を漏らしてしまった。
「あのロイが?」
「ええ。あのロイが」
「…ウソだろう…?」
「嘘言ってどうするんですか」
「………」
やたらきっぱりと言い切られ、ヒューズは沈黙する。
――だってよ、あのロイの料理だろ。それって…。
「それ、誰が食うんだ?」
聞きたくないが聞いてしまう。
「たぶん…俺、でしょうね。アンタもここに来たのが運の尽き」
そう言ってハボックに憐れそうな視線を送られ、ヒューズは勢いよく立ち上がった。
「…俺、急用を思い出したから帰るわ。ロイによろしく言って…」
「来ていたのか、ヒューズ」
一足遅かったらしい。
声の主は言うまでもなくロイで。
立ち上がった時のポーズそのままで硬直したヒューズに首を傾げる。
「よく来たな。今昼飯を作ったところなんだ。お前も食っていけ」
こう言われればもうヒューズに逃げ道はなかった。
「あ、ああ」
歯切れのよくない返事を返す彼を気にした様子もなく。
ロイはハボックに声をかける。
「ハボックも早く来い。冷めてしまうぞ」
「了解っス」
そう答えて立ち上がり、先に行ってしまったロイの後を追う大型犬は、もう一度だけ憐れみの視線をヒューズに送った。
だが、逃亡させない為に止めを刺す事も忘れない。
「…ま、運が悪かったと思って諦めてくださいね」

この後、二人(正確には一人と一匹)は微妙な味の料理に思う存分その愛を試されたらしい。






『錬金術の基本は等価交換だ』

そう、あの人は言った。

『まあ、錬金術の原理と言うよりは自然界の原理だけどね』

『1のものからは1のものしか生まれない』

『人は神にはなれず、命は永遠ではない』

『でもね、ジャン。君は違う』

何が、とはあの時の俺は聞かなかったけど。今なら分かる。

『だからね、ジャン。いつか、お前がその命をかけてもいいと思う人が現れたら、その人のいない生など意味がないと思うほど大切な誰かが現れたら。この言葉を告げなさい』

寂しげに笑うその理由を知っていたから、俺は何も言えなかった。
あの人は、俺の耳元に小さくその言葉を囁いて。
それから、もう一度寂しそうな笑顔で笑った。

『愛しているよ』

俺もアンタを愛しているよ。



俺は、ゆっくりと目を開いた。
そして、あの人の優しい声がまだ耳に残っている事に苦笑した。
「…もう三年、か」
あの人が死んで。
…ロイに出会って。
「ん…」
ロイが小さく身じろぐのに目をやれば、気持ち良さそうに眠る横顔があった。
俺の毛皮の触り心地がいいのがいけないのだ、などと良く分からない理由をつけて俺を枕代わりにして。
安心しきって眠る彼に苦笑した。
「ロイ、そろそろ起きて下さい」
いくら昼休みでも、ここは執務室でアンタの机は書類の山で埋まってるんだから。
そう言ってみたが、起きる気配はなくて。
中尉に怒られるだろうなぁと思ったのだが、起こすには忍びなくて溜息をつくに止めた。
「ねぇ、ロイ。俺はいつかアンタにあの言葉を告げる日が来るんでしょうか…」
「……」
俺の毛皮に頬を擦り寄せるロイはまだ目を覚ます気配はない。
「…でも俺は…いつかその言葉を唱えるのがアンタだといいと、そう思っているんですよ」
今はまだ告げない。
できればこんな残酷な言葉をアンタに告げたくはないから。
でも、たぶん。
確信により近く。
そう遠くない日にそれを告げる事を、俺は知っている。






「………」
この状況をどう解釈すればいいのか。
ハボックは本気で悩んでいた。

寝苦しさに目を覚ました時。
既に彼の飼い主は、ハボックの――自分でも普通の大型犬サイズよりは大きいと思っている――身体を抱きしめるように眠っていて。
ここは東方司令部の執務室で、飼い主であるロイは勤務時間中のはずで、なのにその飼い主は自分を枕に幸せそうに惰眠を貪っている。
そういう状況だったのだ。

こうなった経緯は眠っていた自分には分からず、その為混乱したが。
どうやらこれは歓迎できない状況だ、とハボックは結論づける。
「つーか…このままだと俺まで中尉に撃たれる」
それは絶対遠慮したい。
そう思って。
「ロイ、起きてください」
ロイに声をかけるハボックだが。
当然というか何と言うか。ロイは起きてくれない。
うるさそうに顔を顰めて、毛皮に懐く。
「ロイ、マジで起きてください。大体枕も同罪なんて冗談じゃないっスよ」
昔、「寝心地のいい枕があるのがいけない」と、そう言い訳したロイのせいで、何故かハボックまで怒られる破目になったのだ。
多分このままだと今回も同じ結末が待っている気がする。
そう思うからこそ、ハボックは必死だ。
「大佐っ、お願いっスから起きてください。起きてくれたら今夜いくらでも枕代わりになってあげますからっ」
「本当か?」
叫ぶような懇願に。
ロイが目を開く。
「…アンタ……タヌキっスか…」
「途中からな」
「最悪…」
げんなりとする飼い犬に、ロイは意地悪く笑った。
飼い犬のくせに主人が枕代わりになれと言っても聞かないのが悪い。
それがロイの言い分だ。
昼寝以外で枕代わりになる事を嫌がるハボックに。
これ幸いと一策講じたのが思ったよりも上手くいった。
「約束だぞ」
ロイが起き上がりながらそう言えば。
「…はいはい」
諦めたらしいハボックは小さく溜息をついた。






「おはようございます、中佐。…あら、このこは?」
リザの言葉に犬の姿のままのハボックは尻尾を振る。
首を傾げて見せる姿は犬そのもので、誰から見てもキメラには見えなかった。
「ああ、おはよう。それは、今私が面倒を見ている犬で、名はジャン・ハボックだ」
「そうですか…あなたが噂のジャン君ね」
リザが頭を撫でるのをおとなしく受け入れるハボックに、ロイは内心むっとしながら――なにしろロイは許可なく触ろうとして何度も噛み付かれていた――首を傾げた。
「噂?」
「ええ、ヒューズ少佐が中佐が犬を飼い始めたとあちこちで話していらっしゃいました」
「…あいつめ」
「防犯の為、ということでしたが確かにこのこなら充分ですね」
「…防犯」
「…違ったのですか?」
「…ああ…いや、話すと長くなるので今は止めておこう。それで、今日の…」
ロイは脱力しながら自分の執務机に向かって。
相変わらずの書類の量にうんざりしながら、椅子に腰を下ろす。
「ハボック、お前はそこら辺にいろ。昼になったら中庭に連れて行ってやる」
その言葉に尻尾で返事をして、ハボックは床の上に寝そべる。
この金色の大型犬は噂に違わず利口なようだとリザは感心しながら自分も仕事に戻った。
「………」
「中佐、サボらないで下さいね」
「……分かっている」
「………」
「中佐」
「………」
ペンの進みが遅くなるたびに注意するリザに、ハボックは同情した。
まだ寝食を共にして一週間と少しだが、ハボックもすでにロイの性格はほぼ把握していた。
家でものんびりだらだらと過ごす事が多いロイだが、どうやら仕事でもそうらしいと察して気づかれない程度の溜息をつく。
本当に必要な時は的確で迅速な行動をするが、それ以外ではいまいち。
それがロイに対するハボックの評価で。
それでも、そんなロイの性格をハボックは嫌いにはなれなかった。
「中佐」
「ん、ああ。わかっている」
そう言ってロイがペンを滑らそうとした時。
「っ」
「中佐?!」
「ロイっ?!」
リザとハボックはロイの息を飲む気配に叫んでしまった。
「………」
「………」
「………」
うっかり、というやつだ。
ロイは指から滲む血にも構わずリザに目をやり。
リザはハボックに視線を注いでいた。
そう。
あくまでうっかりと言うやつなのだが。
普通、犬は喋らない。
その常識通りに口を利かないでいたハボックのうっかり発してしまった言葉が。
今の重い沈黙を生み出している。

――空耳って事にしてくれないだろうか。

そう、ロイもハボックも思ったが。
「…説明していただけますね、お二人とも」
リザのその一言に観念したように項垂れた。






「…楽しそうだな、ロイのやつ」
後ろからかけられたその言葉に、リザは振り返った。
そこにはヒューズがいて。
その瞳は中庭で戯れる彼の親友と親友の飼い犬に向けられていた。
「ええ。本当に」
答えてリザも彼らに視線を向けた。

現在は昼休み。
仕事の合間にさえ飼い犬とのコミュニケーションを図ろうとするロイに半ば呆れて。
午前中にある程度書類を片付けられたら、という条件で昼休みから午後の一時までの休憩を認めたのはリザ自身だった。
彼女の上官は、とにかく自分の飼い犬がかわいくて仕方がないらしい。
もっとも、ロイの可愛がり方は少しばかり度を越している(しかも屈折している)ので、それに付き合わされる大型犬――ハボック、は少し(と言うかかなり)迷惑そうだ。
頭を乱暴に撫でられて嫌そうに顔を顰める――ように見える、辛抱強い大型犬に、リザとヒューズを含めその場にいる人間の過半数が同情的な視線を送っている。
「しっかし、わんこも頑張るな」
「…ええ」
「あいつかなり屈折した犬好きだし、ハボックにしてみりゃいい迷惑じゃねぇか…」
背中に圧し掛かられて、げんなりとした表情(に見える)でしゃがみ込むハボックの姿はいっそ憐れなくらいだ。
それでも。出会ったばかりの頃のように噛みついたりしないのは。
ハボックが、あれでもかなりロイのことが好きなのだという証拠だろう。
「ロイ、それくらいにしてやれよ」
ハボックも嫌ならはっきりそう言ってやれ。
ヒューズが声をかけると、ロイは漸くその存在に気づいたらしく、ハボックの金色の毛並みに抱きついたまま答える。
「お前に指図されるようなことじゃないぞ」
「…嫌がってんだろうが」
「…そう、なのか?」
本気で分かっていなかったらしいロイに、ヒューズは大げさに溜息をついてみせる。
一方ロイに縋るような目を向けられたハボックは、困ったように視線を泳がせた。
「…嫌なら…悪かった」
しゅんとなって手を離すロイに。
ハボックはその手を軽く咥えて引き止めた。
他の、自分の正体を知らない人間の目があるので声を潜めて。
「…乱暴に撫でられるのは好きじゃないっスけどね。アンタに撫でられんのは嫌じゃないですから」
ハボックがそう言った途端。
ロイはがばっと彼の身体を抱きしめる。
「ぐえっ」
衝撃に、小さく情けない声を上げるハボックに。

――こいつも結局ロイに甘いんだよなぁ。

と、ヒューズは苦笑した。






『………?』

誰かが、哀しみの声を上げるのを聞いた気がした。

『どうした、ジャン?』

問いかけられて、首を振る。

『…いや…多分気のせいっスよ』

『そうでもないと思うよ』

指が示す先に赤い光。

『ほら。また街が消える』

遠くの街が焔に包まれていく。

『かなしい事だ。どれ程時を経ても、人は争う事だけは止められない』

『あれは…錬金術?』

『ああ、多分気体錬成系のだろうね』

『赤い、焔』



「ハボック」
名を呼ばれて、ハボックが夕焼けから目を移すと。
そこにはロイが居た。
「どうした?」
「いえ、ちょっと夕日にみとれてました」
そう答えて、ハボックはロイの元へ歩く。
その金色の毛並みは夕日の光を受けてきらきらと輝いていて、ロイは目を細めた。
そんなロイを見てハボックは、唐突に気付く。
あれは確か、先のイシュヴァールの内乱の終わり近く。
たくさんの哀しみで満ちたあの場所で、あの時聞いたのは、たぶん。
「どうした?」
途中で立ち止まったまま動かず見詰めてくるハボックに、ロイは首を傾げる。
「いえ、何でもないですよ」
「そうか?」
「はい」
ハボックはロイの側まで行ってその手を舐める。
「俺はアンタの側から離れないですから」
必ずアンタを守るから。

『…助けて…っ』

今もハボックの耳に残る、心の奥底の、悲鳴に似た嘆き。
あのような思いをもう二度としないで欲しい。
そう、ハボックは強く願った。






「よう、わんこ。元気か」
声をかけるヒューズに、金色の毛並みの大型犬――ハボックは露骨に嫌そうな顔をした。
「…昨日も会ったばっかりっスよ」
「まあ、細かいことは気にするな」
「細かくないです」
ぷいっと反対を向いて話などしたくないとばかりの態度を取る。
そんなハボックに苦笑して、ヒューズは彼の頭を撫でた。
「お前可愛くないぞ」
「…男に可愛いと思われたくないんで」
そうは言いながらも、耳の後ろを掻いてやれば気持ちよさそうに尻尾が揺れる。
「ロイは可愛いって言ってたぞ、お前の事」
そう言った途端、複雑そうに空を見上げ、ハボックは大げさに溜息をついた。

犬のそれではないと言い切れるほど、この大型犬の仕草や表情は人に近く。
だから、彼が時折空を見上げて哀しげに目を細めるのを見た時は心が痛む。
大切なものを失う痛みは想像しただけでも苦しいと言うのに、実際にハボックはまだその痛みを引き摺っていて。
それを十分理解しているのに、それでも彼に無理を望む自分に。
ヒューズは己の身勝手さを自覚する。

「…お前さん、本当にロイでいいのか?」
「何がですか?」
「……」
ヒューズが何を言いたいか、勘のいいハボックに分からないはずはない。
事実、ハボックは少しも疑問を抱いていないように見えて。
ヒューズはどう答えればいいのか迷う。
その様子に問いを発した理由すらも察してか、くすくすと笑ってハボックは言う。
「心配しないでも、俺はロイを置いて何処かに行ったりしませんよ。犬は一宿一飯の恩を忘れない生き物です」
「義理堅いってか」
「ええ」
頷くハボックに、
「…頼む」
ついそう口にしてしまう程、ヒューズはロイの事を常に案じていた。
自分はいつも側にいて守ってやることは出来ないから。
あの、強いくせに何処か脆い部分を抱えた親友を守ることのできる存在を求めていた。
心の何処かでこの大型犬ならばあるいはと思いながら、それでも問うのは。
彼にとって以前の主人の存在が余りにも大きく、心を占めているからで。
そして、忘れることなど不可能だと、ヒューズにも分かっているからだった。
「心配性の父親みたいっスね、アンタ」
呆れたような溜息に、ヒューズも頷く。
「…だな」
本当に、ヒューズ自身もそう思うのだ。
それでも、大切だから守りたいと願わずにはいられない。


遠くで、ロイが飼い犬を呼ぶ声がした。
今日は残業なしで帰宅できるらしく、早く来いと急かす声に。
ハボックはのんびりとした仕草で立ち上がり。
「大丈夫ですよ。俺はロイがいいんです。他の誰でもなく」
まるでヒューズの不安を拭うようにそう言って、己を呼ぶ主人を見つめ満足そうに目を細めた。






「あ、雨…」
「何っ?!」
飼い犬のその言葉に、ロイは窓に駆け寄った。
「……なんだ、降っていないぞ」
外は風は強いが雲一つない。
その事にホッとしながらロイはハボックを睨みつけた。

今日は街の視察が予定に組み込まれている為、雨が降っては困るのだ。
もし雨が降れば、護衛にハボックだけでなくリザもついて来る事になっているので、公にサボれる数少ないチャンスを逃してしまう事になる。

「今の発言は私に対する嫌がらせか?ハボック」
「いや…そういう訳じゃないんですけどね」
「では何だ」
偉そうに聞いてくる飼い主の態度にハボックは呆れた。
それが人にものを訊く態度か。
そう思いつつ空を見上げる。
窓越しの空は雲一つなく、いっそ珍しい位の快晴なのだが。

微かに重い湿気の匂いがする。

人間のロイには感じられなくても、犬であるハボックの鼻はそれを嗅ぎ取っていた。
やれやれと思いながら、ハボックはロイに視線を向ける。
「雨、降りますよ。で、アンタは無能でしょ」
念を押す意味で発した言葉に、ロイは眉間に皺を寄せた。
『念には念を』、『常に奥の手を持て』。
親友と副官とこの飼い犬に散々言われ続けた言葉だ。
「………」
「そんな顔してもダメです。中尉にも来てもらいます」
「………」
「大佐」
「………分かった」
渋々頷くロイに、ハボックは苦笑する。
「こんなにいい天気だというのに…」
降るのか。
ロイは空を睨みつけて呟いた。
「日頃の行いっスね、たぶん」
「だったら何故雨が降るっ」
「…アンタそれ、本気で言ってるんですか」

どうやら自覚はないようだ、とハボックは呆れ果てた。
















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