わんこと錬金術師 番外










ある非番の日の朝。
ロイは酷く困惑していた。

目が覚めた時、彼の隣には金色の毛並みの大型犬がいて。
寄り添うように身体ををくっつけて、優しい眼差しで自分を見詰めていたのだ。

――ありえない…。

夢だとそう考える程ありえない事態に、ロイは本気で困惑していた。
夜一緒にベッドに入っても、朝には一人にされてしまうのが常だというのに。
今日は何故か、ロイが目を覚ますまでおとなしく枕代わりをしていたのだ。
ありえない。
そんな事を考えつつぼんやりと自分を見ている飼い主に、大型犬――ハボックは苦笑する。
「目ぇ覚めました?」
「…うむ」
「おはようございます」
「おはよう」
頭を擦り寄せて頬を舐めるハボックに、ロイは硬直する。
「???」
ありえない。
硬直したまま微動だにしないロイの様子に。
ハボックは首を傾げ、それから穏やかな声で訊ねた。
「どうします?もう少し寝ますか?」
「う…あ、いや……起きる」
内心派手に動揺しながら、それでもなんとか表面的には平静を保ったロイに軽く頷いて。
「分かりました。じゃ、朝飯の仕度しますね」
そう言って、ハボックはあっさりベッドを降りてしまう。
「う、うむ」
そのあまりにもあっさりした様子に、やはり寝ぼけていたのだろうと一人頷いていると。
ドアを開けて出ていこうとしていたハボックが足を止め、ロイを振り返った。
「今日は何食べたいですか?」
好きなもん作ってあげますよ。
それ自体は極めて純粋な質問であったが、後に続く言葉に奇妙な引っ掛かりを覚え。
ロイはその引っ掛かりの正体を確かめるべく口を開いた。
「………何でも良いのか?」
「はい」
答える飼い犬には何の作為も見られない。
だが、何かが変だとロイの勘が告げている。
「オムレツ」
「他には?」
「………いつものサラダ。トマトはいらない」
「わかりました」
ありえない。
絶対ありえない。
いつもなら絶対「好き嫌いはいけませんよ」と言う場面だ。
ロイは大いに困惑した。
今口にしたものを食べたかったのも事実だが、最後のトマトの件は試しに言ってみただけなのだ。
感触がどうにも好きになれずいつも最後まで残るトマトだが、ハボックは好き嫌いを許さないので必ず食べさせられる。
だから、先程の受け答えは絶対にありえないはずなのだ。
「他に何かご注文は?」
飼い主の内心など知る由もないハボックは更にそう訊いてきて。
ロイはトマトの件同様に普段ならその場で却下される望みを口にする。
「…おはようのキス?」
思わず疑問形になるのはこんな事絶対聞いてもらえるとは思っていないからだ。
なのに。
目の前の大型犬は口の端を少し上げて苦笑めいた笑みをみせ、ロイの方に戻ってきて。
練成反応特有の輝きの後。
眩しさに目を瞑ってしまったロイの唇にちょんと何かが触れた。
確認するまでもない。
人型時のハボックからしかしない煙草の匂い――なぜ犬型の時に匂いがしないのかは分からない――が鼻を掠める。
ついでとばかりに頬と額にも1回ずつキスされて。
恐る恐る目を開くと穏やかに微笑むハボックの姿があって。
「これでいいっスか?」
犬の時と変わらぬ動作で首を傾げて問われた。
「…………」
ありえない。
ありえないったらありえない。
「ロイ?」
「あ、ああ。うん…何でもない」
「そうっスか?」
「ああ」
こくこくと頷くロイに訝しげに首を捻るが、それ以上追求する気はないのか。
ハボックはロイの頭を優しく撫でてから。
「じゃ、俺は仕度してきますね」
アンタは顔洗ってきてください。
そう言って、寝室から出ていってしまった。
「………夢だ、絶対」
ロイがそう呟くのも、無理からぬ事だった。




それから。
少し遅い朝食をとって、今朝の出来事を忘れるべく――考えても結論が出なかったので――読書に没頭していたロイだったが。
昼を少し過ぎた辺りから眠くなってきて、うとうとし始めていた。
その眠気を堪え必死に本に目を凝らす姿に、ハボック(犬型)は苦笑する。
眠いならば寝れば良いのに。
そう思うが、ロイが寝たくない原因が自分だなどとは欠片程も気付いていなかった。
そのまま暫く黙って様子を見ていたハボックだったが。
ついに本に突っ伏してしまった飼い主にやれやれと溜息をついて、彼の側へ寄る。
「ロイ、眠いなら昼寝します?」
「ん…そう、だな」
「こことベッド、どっちで寝ます?」
鈍い動作で起き上がるロイを支えながらそう問えば。
ロイは閉じかけた目を擦りながら逆に聞き返してきた。
「…お前はどうするんだ?」
お前がここにいるならここで寝るぞ。
「?アンタと一緒ですよ?」

…………。

「………いっしょ?」
「?…枕が一緒でなくてどうするんですか」
眠気は一瞬で去ってしまった。
嫌な冴え方をした頭で、ロイは先程のハボックの言葉を思い返す。
『アンタと一緒ですよ』『枕が一緒でなくてどうするんですか』
聞き違いじゃないだろうか。
そう思うが、そうでない事も既に(無意識に)確認してしまっていて。
「いいのか?」
「当たり前でしょ」
ありえない。
途方もなくありえない。
問えば当たり前のように頷くハボックに、ロイは本日何度目かの混乱状態に陥った。




結局。
寝室に移動してみたものの眠気がすっかり失せてしまったロイは、ハボックを枕にしてだらだらしていた。
(夢だろうが何だろうが、してくれるというものは素直に受け取っておく事にする辺りがさすがと言うべきだろう。)
そんな飼い主が自分の毛を不格好なみつあみにしているのを文句も言わず眺めていたハボックは。
「そういや、晩飯何にします?」
ふと思い出してそう訊ねた。
「それも私が決めて良いのか?」
「そうですけど?」
「嫌いなものは食べないぞ」
試しにそう言ってみるロイに。
「しょうがない人っスね…まあ、良いですよ」
とハボックが返す。
「………」
ありえない。
絶対間違ってる。
朝から幾度となく考えた結果、ロイはついにある結論に達した。
「さてはお前、偽者だな」
「は?」
「私のハボックをどうした?さっさと白状しろっ」
「???」
「とっとと答えないと丸焼きにするぞっ」
びしっと指を突きつけられて。
ハボックは呆れた眼差しをロイに送る。
「………アンタ、大丈夫っスか?」
「私は至って正常だ。変なのはお前だ、絶対偽者だろうっ」
「…………」
「大体ハボックはいつもそっけなくてこんなに私を甘やかしたりしない!朝まで一緒にいてなんかくれないし、好き嫌いはダメだと言って必ず嫌いなものも食べさせるし、おはようのキスなんか頼んだってしてくれないし、昼寝の枕も必ず断ろうとするし、さらっと酷い事言うし、言う事を聞かないし、ブラッシングだってさせてくれないし…」
喋っていくうちにだんだん勢いがなくなっていく声は最後の方は殆ど呟きといった感じになり。
「…どうせ、あいつは私なんか好きじゃないんだ…」
と、締めくくられた。
その余りの憐れさにハボックはどう答えるべきか本気で迷ってしまう。
結局、
「………いや、好きなんですけどね…」
と無難な言葉を返してみるが。
「偽者に言われても嬉しくない」
そう言って、きつく睨まれてしまった。
その様子にいっそ思い切り文句を言ってやりたくなったハボックだったが。
この飼い主がかなり突飛な思考の持ち主である事はよく知ってたので、溜息をつくだけに止める。
そして、代わりに(一方的な)誤解を解く方法を探す事にした。
「…まず第一に、どこをどうしたら俺が偽者って事になるんですか…」
昨日の夜、アンタと一緒にベッドに入ったでしょう。
「…宇宙人がすり変えたのかもしれない」
「何訳の分からん事言ってんですか…」
「だって」
ハボックはこんな風に優しくなんてしてくれない。
やけに悲しげに呟くロイの姿に、ハボックは思わず空に視線を泳がせてしまう。
「…………そりゃ、俺も多少は酷い扱いしてると思うけど」
そこまで言われる覚えはないっスよ。
「うるさい、偽者」
俯いたままそう呟く主人に。
ハボックはどうしたものかと悩み、溜息をついた。
「どうすれば本物だって信じてくれるんですか」
「信じない。だって偽者だろう」
そう断じられれば、ハボックにはどうする事もできないのだ。
「ロイ…勘弁して下さい。いくら俺だって飼い主に偽者呼ばわりされりゃ傷付くんですよ」
「………」
「ロイ」
「………」
あくまで無視する気らしいロイに。
今更言いたくはないが言わなければ解決しないだろうと考え、ハボックは低く唸った。
「まあ…朝真っ先に言わなかった俺が悪いですけどね…」
「やっぱり宇宙人に」
「んなわけないでしょ。バカですか、アンタ」
「……じゃあ何だ」
むっとして顔を上げるロイに、ハボックは気まずげに唸って、それから1回だけ咳払いをして。
「誕生日おめでとうございます、ロイ」
そう、口にした。
「…………たん、じょうび?」
「まあ、忘れてるとは思ってましたけどね…」
「………」
そう言われて。
ロイは、今朝から今までの出来事を反芻し、漸く納得した。
よく考えてみれば、普段ならありえない程今日の自分は甘やかされていたのだ。
「それで?」
今日ずっと?
「そうです。最初は何か贈ろうと思ったんですけど、良いものが思い浮かばなくて。だったら俺に出来る範囲で今日1日アンタの望みを叶えてあげようと思ったんです」
気付いてないとは思いましたけどね。
そう言って笑う彼は、たぶんロイが偽者発言をしなければ教えない気でいたのだろう。
そう察し、ロイは少しだけ気に入らないと思ったが。
それを追求しようとしたところで上手くはぐらかされてしまうのがオチなのでその件に触れる事は諦めて。
「そういう事は先に言え」
それだけ言って飼い犬の金色の毛並みを抱きしめた。
耳や額やその他、顔中にキスを落とされても、ハボックはいつものように逃げようとはしない。
ロイにとってはそれがひどく嬉しかった。
さらに。
「だって今更って言うか…俺だって恥ずかしいんですよ。こんな風に誰かに何かしてやりたいって思うのは初めてだし…」
その、思いもよらない発言に。
ロイはまじまじとハボックの顔を見詰めてしまう。
俄かには信じられない事だ。
ハボックは面倒見もいいし、決して人間が嫌いというわけではない。
ましてや、彼はロイの前にも飼い主がいたのだ。
当然その相手にも何か送るくらいはしていただろうと思っていたのに、彼の今の発言を考えるとどうやら違うらしい。
「そう、なのか?」
「ええ。生まれてこのかた、一度だって誰かの誕生日を祝った事なんかありませんから」
返されたその言葉に、ロイは久しくない程の感動を覚えた。
ロイにとってその言葉は、自分だけが特別なのだと、そう言われたのと同じ事だった。
「俺だけ、か?」
「ですね」
確認をとるように囁くと、ハボックは素直に頷いてみせ。
それから楽しそうにくすくすと笑う。
「なんだ?」
ロイがその金色の毛並みに顔を埋めながら問えば。
ハボックは大した事じゃないんですけどね、と言って、また笑った。
「喋り方、そっちの方も新鮮でいいですね」
「?」
「俺ってやつ。普段はらしくもなく気取ってるし」
「らしくなくってなんだ。俺はいつでも」
動揺の大きさのせいなのか、そのままの口調で反論しようとするロイに。
ハボックは収まらぬ笑いもそのままに、寄せられたロイの頬を舐めて、それから囁く。
「はいはい。大好きですよ、ロイ?」
「うむ」
満足げに頷くその姿に。
ハボックは何にとはなく祈りたくなった。
強いて挙げるなら、この人をこの世に送り出してくれた全てに。
そして、なにより。
今日まで必死に生きてきて、これからも生きていく彼自身に。
「アンタが生まれた今日という日に最上の感謝を」
来年も祝わせてくださいね?
想いを込めて囁かれたその言葉に。
「あたりまえだろう」
ロイは心底幸せそうな微笑みを浮かべてそう答えた。
















※誕生日と発想に難のあるひと。


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