わんこと錬金術師(事件編)










ロイが犬――ハボックを拾って二週間が過ぎようとしていた。



どんよりと、今にも雨が降り出しそうな空の下で。
ハボックは退屈そうにロイの家の庭に寝そべっていた。
治るのにかなりの時間を要するだろうと思われていた深い傷もほぼ完治していたが、まだ勝手に出歩く許可は出されていないので退屈でしかたがないらしい。
先程からそうやって庭先に寝そべり、わざとらしい溜息を繰り返している。
「ずいぶん退屈そうだな」
遊び(のろけ)に来ていたヒューズに声を掛けられ、視線と尻尾だけで返事をして起き上がる気配すらない。
「お前なぁ」
「ハボック」
抗議の声をヒューズが上げようとした時、ロイがハボックを呼んだ。
途端に金色の巨体をむくりと起こし、窓辺までやってくる。
「なんですか?」
「クッキーを貰ったんだが食べるか?」
「食べても良いんスか?」
自分に対する態度との違いに、ヒューズは呆れてしまう。


信じられない事だが、ロイはこの二週間のうちにこの大型犬の尊敬を得る事に成功していて。
それまで威圧的な口調で話していた彼がロイ相手にくだけた敬語で答えるのを見た時は驚いたものだった。
どうやら本来の彼はこういう喋り方をするタイプらしい。
もちろん。
今ではヒューズ自身もそれなりに敬意を払われているらしく敬語は敬語なのだが、態度が違う。
ロイの何がそこまで気に入ったのか、ハボックはロイの言葉にはおとなしく従うようになっていた。


とは言っても、それは実際には主人に対する盲目的な献身とは程遠いもので。
ロイの目指す愛犬との関係(笑)には到っていない。
それでも。
「旨いか?」
ロイの問いに毛足の長い尻尾を振って答える様子は、すでに飼い犬と主人を思わせた。
実際にこの関係に到るまでにはかなりの問題があったらしい。
ロイがハボックに傷を負わされた事は一度や二度ではないし、ハボック自身も何度も逃亡を図った。
そんな紆余曲折を経て彼らは今の関係を築いたのだから、ヒューズはロイの意外なまでの根気に感心していた。

「そういや、あの事件は進展があったのか?」
ふと、最近セントラル周辺を騒がせている事件を思い出してヒューズが問う。
ロイは顔を曇らせて首を横に振った。
「…いや」
「厄介だな。このまま被害が拡大するようだと軍の方も相当叩かれるぞ」
「ああ」
重い表情をする二人にハボックが顔を上げる。
「事件って…キメラのっスか?」
何故知っているのかと問おうとして、ヒューズはある事実を思い出す。
「…そういや、お前さん、字が読めたな…」
「読めますよ、それくらい。で?」
「その通りだ」
そうロイが答えると。
ハボックは何かを考えるように空に目をやった。
犬にしては人間的な感情表現をする彼は、難しい表情をして低く唸る。
「ふうん…」
「心当たりがあるのか?」
「…ないとは言い切れないですね」
「………」
その言葉に沈黙が降りる。
ロイもヒューズも考えなかったわけではないのだ。
ここ一ヶ月あまりの間に頻発している野生化したキメラの襲撃と、同じ時期に現れた犬のキメラであるハボックに何らかの関係があるのではないかと。
それでも口に出さなかったのは。
それが、彼の負った傷と錬金術師に対する不信に繋がっていると思ったからだ。
ぽつぽつと降り出した雨の中、二人と一匹は押し黙って口を開けずにいた。

ジリリリ…

唐突な、沈黙を破って鳴り響く電話の音に。
ロイが無言で受話器に手を伸ばす。
「はい、マスタング…」
一拍置いて。
いつもの調子でそう口にしたロイの表情が、一変する。
「なにっ?!すぐに行くっ、待機していろ!!」
「どうした?!」
「またキメラだ。将軍宅が襲われたらしい」
「俺も行こう」
「すまないな、せっかくの休日に」
「それはお前もだろ」
ロイの言葉に笑って、ヒューズはハボックを振り返る。
「悪ぃな、ハボック」
「ヒューズ、さっさとしろっ」
一人で先に玄関へ行ってしまったロイを追って。
慌ただしく出て行く二人を見送ったハボックは、庭に戻ろうとした。が。
その足が止まる。
嫌な予感がした。
この世でたった一人大切だった人が死んだ、あの日のような。
理由は分からなかったがハボックは焦燥に駆られ、雨の降りしきる外へロイ達を追って走り出した。





雨が匂いを消し去り、ハボックが直感だけで現場に到着した時。
すでにロイは建物に潜入した後だった。


慌ただしく軍人と憲兵が行き来する中。
ヒューズとハボックが互いを見つけたのはほぼ同時で。
目を引く金色の大型犬の姿に、新たなキメラの出現かと銃を構える兵士たちの中を驚くべきスピードで駆け抜けて。
ハボックはヒューズの前に立った。
「マース、ロイはどこですかっ?!」
「ハボック、お前っ」
周りに他人が居るのも気にせず喋るハボックに焦るが、その瞳の真剣さに一瞬黙り。
ヒューズは大きく溜息をついた。

――『犬は飼い主に似る』と言うのが本当ならば、彼の元の飼い主もロイと似た性格だったに違いない。

「あのバカ一人で潜入しちまったらしいんだ。迂闊に手が出せない状況で痺れを切らしたらしくてな」
俺たちも動けないってのに。
「俺が行きます」
ヒューズの言葉にきっぱりと言い切るハボック。
「無茶だ」
そうヒューズが答えたが、彼は何の躊躇も見せず建物に足を向けてしまう。
先の台詞は、許可を求めたわけではなく宣言だったという事らしい。
「大丈夫ですよ」
「だが…」
「悠長に構えている時間はないんです」
大丈夫ですから。
その自信がどこから来るのか分からないが、ハボックは口元を器用に吊り上げてみせる。

――犬のくせに本当に人間みたいだな。

そう思ったが口にはせず、ヒューズは頷いた。
「…わかった。頼むぞ」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ハボックは走り出した。



血と硝煙とタンパク質が焼け焦げる匂いが充満する元将軍宅――元、と呼んで差し支えないほどに破壊され大量の血痕が残されている――はしんと静まり返っていた。
ハボックはチリチリと燻る炎を避けながら、辺りの気配を探る。
新たな侵入者の出現に息を顰め様子を伺うキメラ達は、明らかにハボックを警戒していた。
中には金色の大型犬の姿に怯え、震えだすものもいる。
「こいつら…やっぱりそうなのか…?」
唸るように呟き、目の前を歩いていくハボックに、キメラ達が手を出す気配はない。
その理由に、彼はすでに思い当たっていた。
「…バル。どうやら奴らはアンタの研究を他のキメラに応用しようとしたらしいっスよ…」
襲ってこないのは俺が何なのかが分かるからか。
今はすでにこの世にいない主人に、そう呟く。
それから。
周囲の匂いの中から微かにロイのそれを嗅ぎ取り、ハボックは階段に足をかける。
きしりと音を立てる、原型を留めていない階段を登り切ると、天井に大穴が空いた廊下に出た。
「………」
ロイの匂いにはだいぶ近づいている。
だが、焦燥感は消えてくれない。
その事実にハボックは焦りを覚えていた。
それでも辺りを警戒し慎重に歩を進める。
ハボックの中の本能が警鐘を鳴らす。
突き当たりの戸が開け放たれた部屋から、ロイの気配――同時に複数のキメラの気配も感じた。
「ロイっ」
「ハボックっ?!」
本能の命じるまま駆け込んだ部屋の中、キメラは今にもロイに飛びかかろうとしていて。
ハボックは牙を剥く。
「逃げてくださいっ、嫌な予感がします!」
「…っ」
ハボックが叫ぶのとほぼ同時に。
みしりと嫌な音をさせ、床が歪んだ。
キメラとロイの戦いの衝撃に耐えられず、家の一部が倒壊したのだ。
「ロイっ」
叫ぶがすでに時遅く。
崩れていく床に足を取られ落ちていくロイに。
ハボックは必死で”手”を伸ばした。





「くっ」
ハボックは低く呻いた。
久々に動かす”腕”は普段のものと感覚が違いすぎて、落下するロイの体重を支えるには少し無理があったらしい。
鈍った身体に舌打ちして、ハボックはロイの身体を引き上げる。
放心状態のその身体を抱き締め、そうして彼が生きていることを確認して、漸く心底安堵した。

――今度こそ、間に合ったんだ。

腕の中にある温もりを大切そうに抱き締めて。
ハボックはホッと溜息をつく。
「大丈夫ですか?」
そのままの姿勢で問うと、少しだけ窮屈そうに身動ぎして、ロイは自分を抱きしめる男に視線を向ける。
ロイの目に映るのは、少しくすんだ蜂蜜色の髪に空の色を写し取ったような瞳を持つ、見知らぬ青年の姿で。
だが。
心配そうに覗き込む仕草が彼のよく知る犬を思わせる。
「ロイ?」
その、知ったそれよりも少し低く、滑らかな発音に目を瞬かせて。
「…ハボック?」
ロイはそう聞いた。
少し放心状態を引き摺った声音に苦笑して。
ハボックは首肯する。
「そうです」
「お前…人間だったのか?」
問われ、ハボックは首を横に振った。
「俺は犬です。この身体には一滴も人間の血は流れていません」
「なら…なぜ?」
さらに問われ、少しだけ眉を寄せて。
人間の姿をした元大型犬は溜息をつく。
「俺を構築する錬金術は幾つもの役割を果たしています。その一つが、可変物質の変成です」
錬金術の基本、物質の分解と再構築。
ハボックはそれを生まれながらに行う事できた。
「…ならその身体は」
ロイが彼の顔に触れる。
触り心地を確かめるかのような手つきに擽ったそうに身動いで。
「そうです」
ロイの考えを肯定する。
「俺は条件さえ整っていれば、周囲の物と自分自身から自分の望む姿を作り出す事が出来るんです。自ら形態を変える無限の命を備えた生命の創造…あの人の研究の最終目標がそれだったから」
ついでに衣服とかも自分の毛から錬成出来るんで、まあ便利なんですけどね。
少しだけ目を細めて、ハボックは小さく笑う。
その笑みは酷くぎこちなく、ハボック自身への嘲笑が篭められていて。
ロイは眉を顰めた。
「…犬の姿も、お前が自分で造った姿なのか?」
「いえ。あれは元の姿です。生まれ持った、たった一つの」
それが何を意味するのか。
ロイは漸く思い至る。
生体錬成は専門分野ではないが、どこかの錬金術書でそんな内容を目にした事があったのだ。
「…お前は…まさか…犬と錬成陣を合成したキメラなのか?」
「ええ。生まれる前の胎児の時にこの錬金術を施されてからは」
「そんな事が可能なのか…」
錬金術そのものとの合成など普通は思いつかない。と言うよりは在り得ない。
昔目にしたあの錬金術書の内容は未完成で不完全な理論に過ぎなかった。
あれはどこまで行っても机上の空論、ただの理想論のようなものだった。
「魂に錬成陣を刻む事さえできれば不可能ではないらしいです」
まあ、俺はキメラと言うより錬成陣そのものに近い存在なんですよ。
そう言うハボックに、ロイは眉間に皺を寄せる。
「………」
確かに、もしそんな事が可能ならば、彼がその姿を変えられる理由はそう難しくない。
等価交換の原則に則って、その魂に刻まれた錬成陣を使い己の肉体そのものを変成しているだけという事だ。
「…そういえば、キメラは?」
ふと思いだしてロイが問えば。
「俺が居ますからね。手を出してきません」
と、ハボックはあっさりと答えた。
「何故?」
「俺が奴らの本来在るべき姿…完成品…だからです。あいつらは粗悪なコピーで、俺には勝てない事を本能で知っているから手を出さない」
その言葉にロイは少しの間押し黙って何も言わなかった。
それから、漸く口に出した言葉はキメラそのものに触れる内容ではなかった。
「……ここに、キメラ以外の気配はあるか?」
「いえ…もう居ないようです。痕跡は感じますけど…だいぶ薄い」
「そうか…」
ロイの気遣いに、ハボックは苦笑した。
聞けば答えてもいい程度の内容なのだけれど。
それでもその気使いが嬉しくもあるのは事実で。
「とりあえず、キメラをどうにかしないといけませんよね」
そう言って、その件は保留にさせてもらった。
ロイもそれに頷く。
「どうするんだ」
「あいつらは主の命令以外の事はできない。だから、俺なら捕まえられますよ」
「なら、頼む」
「はい」
ロイの言葉に頷いて。
ハボックは彼の前で再び犬の姿に戻った。





「もう一週間だ…」
相変わらずキメラは出るが実害はなく。
あの日以降、キメラは街の中に現れては何かを探すように徘徊するだけだった。
その捕獲もハボックのおかげで難しくはない。
だが、主犯――つまり、彼らを作った錬金術師は一向に現れないのだ。
「………」
何度か、ロイもヒューズもハボックに今回の件について訊ねようと思ったのだが。
なかなか言い出せないまま、現在に至っていた。
「……なぁ、ハボック」
決心したヒューズが口を開いた途端。
「ヒューズっ、買い物に行くぞ!」
ロイがそう叫んだ。
何を考えているかなど、長い付き合いのヒューズにはすぐに分かる。
ロイは恐れているのだ。
聞き出した結果、ハボックが自分の許を去るのではないかと。
「おい、ロイ」
「行くぞっ」
「ちょっと待」
「いいから行くぞ!ハボック、ちょっと行ってくるからな」
ヒューズの腕を掴み強引に部屋を出て行くロイ。
引き摺られる形のヒューズが声を上げても取り合う気はないらしく、あくまで無視して歩く。
「……いってらっしゃい」
閉まる扉越しに聞こえたハボックの声の響きは、深い憂いの色を帯びていて。
ヒューズは何も言えなくなり、口を閉ざすしかなかった。



「これで全部か?」
「ああ。だったはずだ」
荷物持ちにされたヒューズは抱え込んだ紙袋の中を覗く。
中身は主に食料で、それ以外にも日常生活で必要と思われるものがかなり入っている。
「歯ブラシ…この前買ってなかったか?」
「それはハボックのだ」
「わんこの…って、あいつ人間の姿、滅多にとらないだろ」
「でも歯磨きはするからと言っていたぞ」
「はあ、さすがって言うかなんて言うか」
彼の元の飼い主はよほどしっかり人間の生活というものを教えていたのだろう。
ロイよりよっぽど人間生活は出来てるよな。
ヒューズはそう思って苦笑した。
件の”犬よりまともな人間生活の出来ない”親友は、それを見て首を傾げている。
「何だ?」
不気味だぞ。
「いや、何でもない」
ヒューズが苦笑を浮かべたまま答えた時。

銃声が響き渡った。

「ぐっ」
悲鳴を堪えるロイの足は赤く染まっていて。
その鮮やかな赤が道路に染みを作っていく。
痛みに顔を顰めながらそれでも睨みつけるように前を見た、そのロイの視線の先には一人の男が立っていた。
嫌な笑みを浮かべる男にロイもヒューズもぞっとする。
嫌な予感がした。
次の瞬間、銃声と同時に肩に熱が生まれる。
さらにもう一発。
両肩を打ち抜かれたのだと気付いたが、分かったからどうなると言うものでもなく。
次いで訪れた激痛に堪えきれずロイは低く呻いて蹲った。
それでも視線を外さなかったのはさすがと言うべきだったが。
反撃しようにも両手をやられては発火布が使えない。
「ロイっ」
叫び駆け寄ろうとしたヒューズの足にも、容赦なく銃弾が撃ち込まれる。
眉を寄せて睨みつける二人に、男は低く笑った。
「君達にはジャンを釣る餌になってもらうよ」




――…ピー…

「…この音」
ハボックはその音に起き上がった。
それは聞こえるはずのない音だった。
遠くにいてもあの人が呼べばすぐに分かるように。
あの人が錬金術で作った、この世に一つしかない犬笛の音。
それが聞こえるという事に、ハボックは戸惑った。

――嫌な感じだ。

本能の訴えにハボックは焦る。

良くない出来事を察知する能力は、あの人が死んだ後に得たもので。
それがおそらくはあの人を救えなかった事に対する後悔から生まれたものだと、そうハボックは確信していた。
ロイが危ないと、以前もそう教えてくれた本能が。
今。
必死に訴えている。

「…ロイ?」
彼の身に何が起こったのかは分からない。
でも、これからさらに危険な事が起こる。
それだけは分かった。

『何があっても、お前の構築式を誰にも教えてはいけないよ』

そう、”あの人”はハボックに言った。

『たぶんそれは人が触れてはならない領域の力だから。永遠に、お前と私だけの秘密にしておきなさい』

それはハボックにとって果たすべき約束なのだ。

――それでも…失いたくない人がいます。約束を破ってでも、守りたい人がいます。

だから、ごめんなさい。そう呟いて。
ハボックは犬笛が呼ぶ方向へ走り出した。





焼け崩れたような廃屋。
そのくせ湿気に淀む空気に、ハボックは苦しげに息を吐いた。
ここはかつて軍の研究所があった場所だ。
書類上では八十年以上前に廃棄され、民間の研究者の手に渡ったとされている。
「また、ここに戻ってくる事になるなんてな…」
「よく来たね。ジャン」
自嘲気味にハボックは呟き、目の前の男を睨みつけた。
男から少し離れた床に縄で縛られたロイとヒューズの姿を確認し、ハボックは怒りに唸り声を上げる。
「お前…」
男の顔には覚えがあった。
数年前から、ハボックの主人の研究に携わっていた助手の一人であり、そして…。
「覚えていてくれたとは光栄だね。そう、私は君の主人を殺して君を切り刻んだ男だよ」
「っ?!」
くくくと笑う男にロイとヒューズが目を見張る。
では、こいつがあの傷を作ったのか。
治癒錬成を行う事が出来るはずのハボックの身体に残った、抉り取られたような痕。
塞がるだけでかなりの時間を要したあの傷を、この男が作ったのかと。
そう考えただけでロイもヒューズも強い怒りを覚える。
「…何で、ロイとマースを…」
ハボックが男に問う。
鼻をつく血の匂いに。
その出血は決して軽くないだろうと容易に想像できた。
ハボックのその声から焦りの気配を感じ取ったのだろう。
自分の予想通りの展開に満足し、男は低く笑って目を細める。
「だって君には有効だろう?あの日、主人の亡骸から離れられなかった君だもの。大切なものを見捨てるなど、できないだろう?」
「………」
「まさか主人の遺体を研究室ごと焼いて逃げるとは思わなかったからね。探すのに苦労したよ」
資料もほとんど焼けてしまったし。
「何とか作ってみた君のコピーは役立たずだしね。錬金術を使う従順なキメラが欲しいのに、彼らは錬金術が使えないんだもの」
男は、距離を保ったまま様子を伺うハボックに向かって手を伸ばす。
そして、招くような仕草をした。
「だからね、君がいるんだよ。今度こそ、その構築式を全部調べさせてもらうよ」
「…冗談じゃない」
恐怖の色こそ混じっていないが嫌悪と警戒を全身で表わすハボックに。
「うん。君はそう言うだろうと思ってね。そこで、もう一度彼らが役に立つんだ」
男は頷いてロイ達を見る。
それが何を意味するかくらい、誰にだって分かるだろう。
「………っ」
「そうはさせるかよっ」
いつの間に縄を外したのか。
声と共に、ヒューズの放ったナイフが一閃する。
が。
予測していたのか、男は一歩引くことであっさりそれを交わしてみせた。
「危ないなぁ、人質はおとなしくしてなきゃね」
「マースっ」
ロイが注意を促すために叫んだのとほぼ同時に。
ヒューズに向けて発射された銃弾が先程撃たれた方とは逆の足を掠る。
当たりこそしなかったが避けた際にバランスを崩し、彼は先の位置から数メートル離れた場所に膝をついた。
「っ」
「マースっ!」
再度。今度は頭を狙った銃口から、ヒューズの身を守るようにハボックが立ち塞がる。
その姿は牙を剥く獰猛な肉食獣の風格を備えていて。
僅かに怯み、男は銃を下ろした。
ハボックの行動の俊敏さは知っていたが、さすがにここまでとは考えていなかったのだ。
「仕方ないな…」
少しだけ考える仕草をして。
「ね、彼と君を交換でどうだい?」
そう言ってロイを見る男の目は楽しそうに歪んでいる。
銃口を向ける、その手の指は既に引き金に掛かっていて。
「…っ」
男の本気を悟り、ハボックは覚悟を決めるかのように目を瞑った。
再び開いた時にはその瞳に迷いはなく、決意を秘めた眼差しで男を睨みつける。
それが何を意味するか気付いたロイが慌てて叫ぶ。
「ハボックやめろっ」
その叫びに、ハボックは首を横に振る事で答えた。
二度と、大切な人を失いたくない。
それが今のハボックの最大の願いで。
彼にとって、ロイを傷つけられるのは何よりも我慢できないことだった。
「…分かった。そっちへ行くからロイを放せ」
「君がこっちへ来てからだ」
「………」
ロイに向けられたままの銃口を見つめて溜息をつき、ハボックは男の方へ足を踏み出す。
「ハボック!」
「いい子だ」
そう言って。
足元までやって来たハボックの、その金色の毛並みに手を伸ばそうとした男に。
かつて主人がこの男に言った言葉を思い出し、ハボックはにやりと笑った。
「……ホント…だからお前は頭が足りないって言われるんだよ」

それは、一瞬の出来事だった。
男の腕が、まるで人形のそれか何かのように身体から切り離され。
宙を舞う。

「ぐあぁっ」
痛みに床に這い蹲ってのた打ち回る男の様に、ハボックは嘲笑した。
「俺がどういう存在か、忘れちまってるとはね」
そう言った彼の尾は、いつの間に錬成したのか、鋭い金属の光沢を帯びていて。
更に刃状なったそれの先は男の血の色に染まっていた。
「俺は自分自身に対してのみしか使えない代わりに、俺が理解し得る限りの錬金術が使えるんだぜ?」
迂闊過ぎだな。
「貴様っ」
血走った目で睨みつけてくる男に。
ハボックは歩み寄る。
「お前は危険だ。ここできっちり息の根を止めてやるよ」
「さ…せるかっ」
男は床に手を伸ばした。
そこには薄く、判らないように描かれた錬成陣があった。
「っ」
ぱしんと青白い光を伴って錬成反応が起こる。
その光はハボックではなくロイの方に向かって伸びて。
「ロイっ」
叫び、ハボックはロイを庇うように、光の前に飛び込んだ。

そして。

ぐしゃりと酷く嫌な音を立てて。
錬成された槍状のパイプが彼の身体を貫いた。

「…く…てめぇ…」
苦痛に呻きながら、それでも男を睨み据えるハボックの身体からは。
赤く鮮やかな色の血が、床の上に大量に零れ落ちていく。
「ハボックっ」
叫ぶロイに小さく笑ってみせて。
金色の大型犬は己の身体を貫通して床に刺さる細いパイプを、その床から引き抜いた。
身体から抜かないのは、それによって失われる血液の量を考えての事だ。
何があっても、今動けなくなる訳にはいかない。
そう判断し、ハボックはふらつく身体を気力だけで立たせていた。
「マース、ロイを連れて行って下さい」
「…ああ」
静かに告げるハボックのその言葉にヒューズは頷くしかなかった。
どうする気なのか、想像する事は容易かったけれど。
止める事は不可能だと分かっていた。
そして、ハボックがそれを為すには傷を負ってろくに動けないロイも自分も邪魔以外の何ものでもなく。
ヒューズにできるのは、ロイを庇う余力をもう残していないハボックの、唯一の気がかりを取り除いてやる事だけだった。
「嫌だっ、ハボック!…くそっ、放せマースっ」
「悪ぃ…それは聞けねぇよ…」
「行って下さい、マース」
「分かってる…」
本当は助けてやりたいけれど。
ただの人間にできる事はたぶんこれしかないのだ。
そう、自分に言い聞かせて、ヒューズはロイの縄を解き、引き摺るようにして出口を目指す。
「ハボックっ!」
必死に叫び手を伸ばそうとするロイに。
ごめんな。と心の中で謝罪して。
鳩尾に拳を叩き込んだ。
そうでもしなければ彼を出口まで連れていく事は困難で。
それが分かっているハボックも何も言わなかった。
最後に交わした視線は感謝と謝罪とが篭められていて心が痛む。
ロイを担いで痛みに悲鳴を上げる足を無理やり動かして歩きながら、ヒューズは振り返らぬまま叫んだ。

「ジャン・ハボック!」

聞こえているかどうかなど分からない。
それでも。
ヒューズは叫ばずにはいられなかった。

「必ず帰って来いよ!」

お前の帰る場所は既にあるんだから。
だからどうか。
ロイを置いていくような事はしないでくれ。

意識のないロイの代わりに、ヒューズはそう祈った。





その後、キメラ事件はぱったりと途絶えた。


――ハボックは。翌日も、その翌日も。ロイの元へ戻っては来なかった。





あの廃屋での一件から一週間が過ぎた。
それはつまり、ハボックがいなくなって一週間が過ぎたという事でもあって。

ヒューズは窓の外を眺めて溜息をついた。
「………」
ロイは視線だけ外に向け、ぼんやりと床に座り込んでいる。
療養中の身としてはただ無為に過ぎていく時間がもどかしいだけで。
かと言ってまだ歩くには支障のある足で探し回る事も出来ず。
結局、無理を言って家に戻っては来たものの、ロイは常に外を眺めている事しか出来なかった。
あまりに危うげなその様子に目を放すこともできず、だからヒューズはロイの家を療養場所に選んだのだ。

――グレイシアには悪いけどな。

今はロイを放って置けない。
そう言って頭を下げたヒューズを、彼女は優しく微笑んで許してくれた。
普段なら親友に向かって、いい嫁さんだろっと自慢するところだがそれも出来ず。
元気のないロイを心配する彼女に送り出されてここにいるのだった。


ぼんやりとして何をするでもないロイに。
ヒューズは、ロイの中のハボックの存在の大きさを今更ながら確認させられた。
犬好きだとかそういう次元ではなく、彼らの間には誰にも入り込めない絆が確かにあったのだ。
それがどういう種類のものなのか、ヒューズには分からない。
それでも。
存在した事は確かだと、そう思えるのだ。

――いつだって現実は残酷で容赦ない。

何かの折に金色の大型犬が語った言葉が頭を過ぎる。
確かにその通りだと、ヒューズも思った。
「ロイ…」
「分かっている…」
生死不明のまま一週間。
リザに報告を頼んでいるが、金色の大型犬の目撃情報は何処からもない。
もし目撃されれば、あれだけ大きな犬なのだから、キメラ事件の恐怖がまだ完全に消えたわけではない市民の誰かしらが騒ぎ立てるだろう。
それだけに。
何の情報もないと言う事は、最悪の結末を想像させるには充分だった。
「………」
黙り込むロイに、ヒューズは小さく溜息をついた。
どうすればいいのか分からないのは自分も同じで。
でも、立ち止まったままではいられない事だけは知っていた。
だから、更に声をかける。
「ロイ」
「……っ」
今にも泣き出しそうな気配と、耐えるように飲まれた息に胸が痛む。
それでも名を呼ぶヒューズを、ロイは顔を上げて睨みつけた。
頼むから黙ってくれと瞳が訴えているが、ヒューズは首を横に振った。
「ロイ」
「分かって、るんだっ」
でも…と。
そう続けようとしたロイの動きが唐突に止まった。
呼吸すら忘れたかのように、一切の動きが停止し。
それから。
戸惑うように視線を動かして窓に目を向ける。
「…今」
「何だ?」
「今、犬の声がした」
そう言って。
「おいっ」
呼びかけを無視して、痛むだろう足を引き摺って歩いて行ってしまうロイに。
それを追ってヒューズも玄関へ向かう。

そして。
漸く辿りついたロイが急いで玄関のドアを開くと。

そこには、
「………あの…」
いきなり開いた扉に驚き戸惑う大型犬の姿があった。
身体中血と泥で汚れ、痛むのか右前足を地面に着かないようにしているが。
確かに彼は生きていた。
「っ!」
「うわっ」
ロイは迷うことなくハボックを抱きしめる。
それにますます戸惑い、途方に暮れるハボックだったが。
「あの…ロイ…」
どれ程ロイが心配したかは察したのだろう。
遠慮がちな小さな声で彼の名を呼び、頭を擦り寄せる。
その仕草に、ロイは嬉しそうに微笑んで答える。
「…何だ?」
「遅くなってすみません…その、思った以上に傷が酷くて動けなかったもんで…えっと」
「…もう、帰ってこないかと思った」
一生懸命説明しようとする大型犬に、思いを込めて口にしたロイのその言葉に。
ハボックは困ったような嬉しいような、そんな表情で目を細める。
「…ごめんなさい…あの」
まず謝罪を述べ、それから言葉を続けようとした途端、ぎゅっと抱きしめてくるロイに。
ハボックは少しだけ困ったように笑って。
それから。
「…ただいま…」
で、いいんですよね?
と、躊躇いがちに確認する。
それに目を見開いて。
その後、ロイは嬉しそうに微笑んだ。
「お帰り、ハボック」

その光景に、ヒューズは目を細め。
ほっとしたような優しい笑みを浮かべた。





感動の再会(?)の後。
とりあえず、まず風呂に放り込まれたハボックは、今は床に寝そべっている。
やはり疲れてはいるのか動こうともしない。
「お前さん、よく生きてたな」
ヒューズが声を掛けて頭を撫でてやると視線だけ向けて。
「…必ず帰って来いって言われたんで」
死ぬに死ねませんでしたよ。
そう言って口の端を吊り上げてみせた。
「まあ、元々そう簡単には死なないんですけどね。俺は」
皮肉気な声音でそう続けたハボックに。
ヒューズはどう答えればいいか分からず、暫し考えて。
「…ありがとうな」
あんな一方的な約束を守ってくれて。
そう、感謝の言葉を述べるだけにした。
下手な慰めなど、この相手は欲さないだろうとそう考えたのだ。
尤も聡い大型犬は、ヒューズの言葉の中にあるそんな想いも感じたのだろう。
小さく苦笑めいた溜息を漏らし。
「いえ…本当の事を言えば、俺がここに帰りたかったんです」
と言ってぱたりと尻尾を振った。
その言葉に。
ヒューズは思わず相手の目を覗き込んでしまう。
「ロイの側に?」
「ロイの側に」
問いに返される答えも、覗き込んだ目も、笑いを含むが真剣で。
ヒューズは「そうか」と呟き、安堵の溜息を漏らした。
「物好きだな、お前さん」
「アンタもね」
「まあ、な」
くすくすと笑う一人と一匹に、救急箱を手に戻ってきたロイが首を傾げる。
「どうした?」
「いや、なんでもねぇよ」
答えるヒューズに、ロイはハボックにも確認をとる。
「そうなのか?」
「はい」
ぱたぱたと尻尾振ってみせる大型犬のその様子に。
ロイは言う気はないということかと思い、不満を示すようにわざとらしく溜息をついた。
「……まあいい。傷を見せてみろ」
「うえ…また消毒っスか」
「さっさとしろ」
ほら、と示されて、ハボックはしぶしぶ起き上がる。
そんなハボックの身体に触れるロイは、真剣に傷をひとつひとつ確認していく。
治癒練成の効果か、細かい傷は見当たらないが、以前の傷痕の上に更に大きな傷が出来ていて。
塞がりきっていないのか熱を持って腫れていた。
「…一応ある程度は塞がってるな」
「一週間ほとんど寝っぱなしで治しましたからね」

それから。
消毒をし、ガーゼの上に包帯を巻くロイも、不器用な手付きに見兼ねて手伝うヒューズも。
それを横目で眺めるハボックも、暫く何も口にせず。
少しの間続いた沈黙の後。
最初に口を開いたのはロイだった。

「…すまない」
ぽつりとそう謝罪の言葉を口にする彼に。
ハボックは首を傾げる。
「私が人質になったせいでこんな傷を負わせた」
そっと、傷の上に巻かれた包帯に触れる。
その痛々しげな眼差しに、ハボックは首を振った。
「何言ってるんスか。むしろ俺のせいでアンタもマースも酷い傷を負わされたんですよ?」
足、大丈夫ですか?
「これくらい平気だ。こう見えても痛みには慣れている」
もう一度平気だと言ってハボックの頭を撫でるロイに。
ヒューズも頷く。
「………」
その意味はハボックにも充分理解できた。
いつか見た赤い焔の残像が頭の隅を過ぎる。
「でも」
更に口にしようとした言葉を、ロイは首を振ることで遮った。
「平気だ、ハボック。お前の負った傷に比べればこれくらい軽いものだ…私が捕まらなければこんな傷…」
頭を撫でる彼の手が小刻みに震えている事に。
ハボックは漸く気がついた。
生きていることを確かめるように何度も触れて、決して離されない手のひら。
自分の痛みであるかのように、苦痛の色を浮かべる瞳。

――もう、離れる事など不可能だな。

そう、ハボックは自身に確認するかのように心の中で呟く。
どうしようもない程、この人間に惹かれている。
一緒に居た数週間。そして、傷を癒すために眠っていた一週間の間。
ずっと心の何処かで考えていたそれに。
ハボックは漸く結論を出した。
「俺がアンタを守るのは俺の勝手ですからアンタは気にしないでいいんです」
「だが」
哀しげに視線を落とすロイの、いまだ自分を撫でる手に。
ハボックは頭を擦り寄せ少しだけ舐めてやって、顔を上げるように促す。
それに、のろのろと顔を上げた彼の黒い瞳を見詰めて、ハボックは愛しげに目を細めた。
「ロイ。俺は主人を守ったんです。それは飼い犬の当然の権利ですよ?」
アンタにだってそれを止める事はできない。
そう言い切る真剣なハボックの声に。
ロイは目を瞬かせる。
「…飼い、犬…」
「違うんですか?」
問えば、困惑したままの表情で緩く首を振り、
「……いいのか?」
と、逆に聞いてきた。
それに、ハボックは大きく頷く。
今更、彼以外の飼い主など考えられなかった。
「俺はアンタを俺の主人だと思っています。ロイは俺を飼ってくれますか?」
「当たり前だっ。もう嫌だと言っても駄目だからなっ」
「嫌だなんて言いませんよ」
俺はあんたの事、気に入ってるんです。
パタパタと尾を振るハボックに、ロイは一度大きく目を見開いてから。
がばっと金色の毛並みに抱きついた。
「ハボックっ」
「っ!…ロイっ痛いですっ」
感動の余り、つい思いきり抱きしめてしまったロイにハボックが悲鳴を上げる。
それまで口を出さずに成り行きを見守っていたヒューズも――その必死な悲鳴を憐れに思いつつ――どうにも不器用な親友に注意を施した。
「ロイ…感動してるとこ悪いけどな。怪我人は優しく扱ってやれ」
それに漸く腕を解いたロイは、痛みに呻くハボックに気付き。
心底すまなそうな表情をして俯いてしまう。
「…すまない」
すっかりしゅんとなってしまったその姿に、ハボックは困ったような顔でかける言葉を探す。
なかなか言葉が見つからないのは、下手な言葉はまた力一杯抱きしめられる原因になりかねないからで。
それに益々しゅんとしてしまうロイに、ハボックは盛大に慌てている。
その様を眺めていたヒューズは、やれやれと溜息をこぼした。
「…わんこ、お前これから大変だぞ」

何しろ彼の新しい飼い主は気まぐれで我がままで、ついでにかなり歪んだ犬好きなのだ。
飼い主の我がままに振り回される憐れな大型犬の未来を予想して。
ヒューズは他人事ながらも同情する。

――それでもまあ、お前の選んだ主人なんだ。頑張れよ。

そんな激励(?)を心中で呟きつつ。
落ち込んだままのロイにおろおろし続けるハボックの姿に苦笑した。



ロイとハボックが出逢って、一ヶ月が経とうとしていた。
















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