わんこと錬金術師(出会い編)










重い色をした空。
降りしきる雨。
ロイは何とはなしに重い気分になりながら帰路についた。
いつもと変わらぬ道を歩いて、自宅までほんの数メートルと言うところで、目の端に見慣れぬ物体を見つける。
雨と泥で汚れずぶ濡れになったそれは、ずいぶんと大きな犬だった。
ロイは少し考えてから、それに手を伸ばした。





『犬を拾った。』
ヒューズがロイからそう聞かされたのは、今朝のことだった。
おそらく比喩でもなんでもなく、事実を指しているのだろう。
しかしあの――自分の面倒さえろくに見れない――親友に、犬の面倒など見れるのだろうか。
そんな事を考えながらヒューズはその親友の家に急いでいた。



「こいつはでかいな…」
「だろう」
ロイが拾ったと言う犬は大型に超がつくサイズのもので。
さすがのヒューズも迂闊に手を出していいものか悩んでしまう。
「まだ目を覚まさないんだ」
「拾ってからずっとか?」
「ああ。傷が酷かったから手当てをしたんだが目は覚まさなかった」
確かに。
犬の身体には、やや不恰好な形ながら包帯が巻かれている。
「よく運べたな」
「玄関まで大した距離はなかった。それに思ったより軽かったからな」
「「………」」
しばしの沈黙。
その間の後。
漸く覚悟が決まったヒューズが本題を口にする。
「で、包帯換えるの手伝えばいいんだろ」
「あと出来れば風呂にも入れたいんだが」
「へいへい。わかりましたよ」
溜息をついて、床に膝をつくロイに倣う。
――しかし大きな犬だよな。
薄汚れてしまってはいるが毛並みは悪くない。
しかし、元は薄茶色だったのだろう毛色は今は灰色と茶の斑だ。
風呂に入れたいというロイの気持ちも分からなくはない。
そんな事をヒューズが考えているうちに、ロイは犬の包帯を取る為に手を伸ばした。
その瞬間。
「っ!」
ロイは息を呑んで自分の腕を抑えた。
ポタポタと赤い液体が床に染みをつくっていく。
「ロイっ?!」
いつから目が覚めていたのか、二人の前にいる犬はその両目を開いていて。
青い、冷えた瞳が彼らを見据えていた。
「くそっ」
噛み付かれた箇所から血が溢れて止まらないらしい腕を見て、ヒューズは頭に血が上るのを感じた。
犬から親友を遠ざけるようにして立ち上がろうとした時。
「ヒューズ、待て。大丈夫だ」
ロイがそれを制止する。
「どこが大丈夫だっ」
「大丈夫だ」
思いもよらない強い口調。
ヒューズが黙ったのを確認して。
流れ出る血はそのままに、もう一度犬に手を伸ばす。
「大丈夫だ、何もしない。手当てするだけだ」
犬にそんな事を言っても通じないだろうが。
ヒューズのそんな心の声は、次の瞬間あっさり覆された。
「…錬金術師は、信用できない」
人間のそれほど聞き取り易くはないが、はっきりとした発音で、犬はそう口にしたのだ。





「…おい」
呆然としたまま呟いたヒューズを無視して、ロイは犬に語りかける。
「確かに私は錬金術師だが、お前に危害を加える気はないぞ」
「だけど、錬金術師だ。錬金術師は信用できない」
敵意に冷えた瞳で、近づくものを許さないとばかりに睨みつけられて。
それでも怯まないロイにヒューズは半ば呆れに近い感心を覚える。
肝が据わっているというか何というか。
いや、むしろ…。
心に傷を負ったものの気配に敏感なのか。
「これでもか?」
そう言って、ズボンのポケットから発火布を、腰のホルスターから拳銃を取り出して離れた床に放る。
「………また食いつかれるとは思わないのか?」
抵抗の手段を自ら捨てたロイに、犬は苛立ちと戸惑いの混じる瞳を向けて問う。
問われたロイは頷いて答えた。
「お前は自分を信じようとする者に牙を剥くほど愚かには思えない」
「……世間知らずだな、あんた」
苦笑する気配がして、犬がその身を起こす。
立ち上がった姿は圧倒的な威圧感を備えていたが、ロイは迷わずにその毛並みに手を伸ばしていた。
触れる寸前。
犬はロイの血に塗れた手を舐める。
「悪かったな」
何に対しての謝罪なのかは明白で、今度はロイが苦笑する。
「気にするな。断りもなく手を出した私が悪いんだ」
もう一度ロイの手を舐めて、犬はその視線を立ち尽くしているヒューズに移す。
「おい、あんた。いつまでそうしている気なんだ?」
おかしそうに笑う声は犬のものとは思えない。
「あ、ああ」
「まあ、普通は犬が喋れば驚くもんだからな。そこの錬金術師は最初から感づいていたらしい」
普通の犬じゃないって。
「私の名はロイだ。ロイ・マスタング」
『錬金術師』と他と一括りにされたことが気に入らなかったのか、ロイが不満そうに名乗る。
犬は少しだけ首を傾げ、次いで相槌を打つ。
「ふうん。ロイ、ね。あんたは?」
「マース・ヒューズだ」
「マース」
新しい単語を覚えた子供のように反復して、少しだけ尻尾を振る。
「お前の名前は?」
ロイがそう問えば、犬はにやりと――誰の目から見てもそう見える――笑みを浮かべて。
「錬金術師に教えてやる名はない」
きっぱりと言い切った。
「私たちは名乗っただろう」
「そうだぞ、犬」
ロイとヒューズが不満げに抗議うすれば。
「それはそれ、これはこれ」
とそっぽを向く。
何と言うか。
「…口の減らない犬だな」
そんなヒューズの言葉に。
「まったくだ」
ロイも迷わず同意した。





自分の腕を手当てした後(と言っても手当てしたのはヒューズだが)、ロイは犬の傍に座り込んだ。
「でだ。とりあえず風呂と手当てをしたいんだが」
ダメか?
ロイがそう言うと、犬は首を横に振る。
「ダメじゃないけど、別にしなくても治る」
「私がしたいんだ」
「なら、好きにすればいいだろう」
なんともおかしな問答だ。
人間同士ならまだしも、犬と人間の『会話』という時点で常識というものからは遠く外れてしまっている。
ヒューズはその事実は気づかなかったことにした。
なおも犬と人間の問答は続く。
「風呂は?」
「…入った方がいいのか?」
犬のその言葉に二人が大きく首肯すると。
「…分かった」
心底嫌そうに承諾する。
人間、というより錬金術師嫌いなようだが、その言動は犬より人に近いと思える。
少なくとも、人間と触れ合ったことのない生き物の反応ではない。
ヒューズはふとある事を思いつく。
それは上手くいけば犬の名を聞き出せるかもしれない名案だ。
「なあ、わんこ」
「だれがわんこだ」
「だって犬だろ」
「………」
「なー、わんこ」
「……」
「わんころ」
「………ジャン・ハボックだ。そう呼んでくれ、頼むから」
ヒューズの知恵(?)と、粘り(と言うか嫌がらせ)の勝利である。
人間的な思考を持つこの大型犬はかなりプライドが高いらしく、わんこと呼ばれることが気に入らなかったようだ。
「じゃあ、ハボック。お前は犬なのか?」
「犬と狼の中間。狼犬とあんたたちは呼ぶらしいけど…とにかくそれのキメラだ」
「…キメラ…だから錬金術師が嫌いなのか?」
「肯定と否定」
「なんだそりゃ」
「あんたたちとは関係のない事だ」
そんなやり取りを交わしながらヒューズとロイは二人で包帯を外しにかかる。
そうして、包帯を外して表れた傷口にヒューズは眉を顰めた。
「…酷いな」
抉られたような痕から、細かな切り傷まで。
明らかに人為的に為された傷口は、犬――ハボックの錬金術師嫌いの理由の一端を覗かせていた。
「痛むか?」
傷にそっと消毒液に浸した脱脂綿を押し付けながらロイが問う。
「痛くないと言えば嘘になるが、まあ、これ位ならもう動けるから問題はない」
「無理はするな」
「………」
ハボックは少しの間ロイの顔を眺めていたが、それ以上何も言わず大人しく治療を受けていた。





「お前さん、金色だったのか」
二人の目の前には、風呂に入ってきれいに洗われた犬――ハボックがいて。
その、洗う前は灰色と茶の斑だった毛並みは蜂蜜色になっていた。
「…何か不都合でもあるのか?」
素っ気ない答えを返し、ハボックは床に座る。
「いや、別にないけどな」
ちらりと横目で親友を見て、ヒューズは頭を抱えたくなった。
「きれいだぞ、ハボック」
そう言い出した親友の目はやけに嬉しそうにきらきら輝いていて。
彼がかなり屈折した犬好きである事を否応なしに思い出させた。
「そりゃどうも」
興味なさそうにおざなりに答え、ハボックは出しっぱなしの応急セットに視線をやった。
犬なので細かい表情までは分からなかったが、それはヒューズの目には心底嫌そうな表情に見えた。
「で、また手当てする気なんだろ」
「そりゃあ」
「しないわけにはいかない」
二人が頷くのに重い溜息をついてみせる。
「俺、消毒薬の匂いって嫌いなんだけどな」
「ガキみたいな事言うなよ」
ほら、とヒューズが手を出すと。
渋々といった様子で立ち上がる。
血は止まっているが傷そのものはまだ発熱し、塞がってる個所の方が少ない。
一番深い傷口は鋭いナイフか何かで抉られ、穴が開いてしまっている。
「痛そうだな」
「しみる」
「我慢しろ」
私も我慢したぞ。
そう言って頭を撫でるロイに、ハボックは複雑そうな瞳を向ける。
一緒にするなとか、ガキを宥めるみたいな言い方するなとか、そんなところだろう。
そんなロイとハボックのやり取りを横目に、黙々と消毒をしていたヒューズの手が唐突に止まる。
「おい、ハボック…これは?」
毛並みに隠れて皮膚そのものに描かれる紋様。
それ自体を見知っている訳ではないが、よく似たものを知っていた。
「洗っていた時には気がつかなかったな」
泡と泥で見落としたんだろうか?
ロイが覗き込んで首を傾げる。
「回復してきたからだ」
ハボックは嫌そうに身を捩る。
おそらく、その紋様も錬金術師を嫌う理由の一つなのだろう。
「錬成陣か」
「この錬成陣は俺を構築する理論そのものだ。そして、俺の主人の研究の集大成でもある」
「だから、触れられることを拒んだのか」
「そうだ。錬金術師は信用できない」
平坦な声でそう言われ、ロイは眉を顰めた。
「私も、か?」
「………」
青い瞳がロイのそれを見上げ、少しの間見詰め合い。
ハボックはまた大きく溜息をついた。
「信用したくないわけじゃないんだ…」
ハボックの中の人間――とりわけ錬金術師への不信は根強い。
今まで培ってきた経験から、そう簡単に心を許すのは不可能だった。
「すまない」
小さくそう謝罪の言葉を洩らし力なく垂れた尾は、彼の心情を何よりも雄弁に語っていて。
だからロイにもこの大型犬が心の中で葛藤しているのが分かった。
「かまわない。私が信用されるように努力すればいいんだろう?」
「……言うほど簡単な事じゃない」
「やってみせる」
その会話を黙って聞いていたヒューズは小さく苦笑を漏らす。
こいつらは案外うまくやっていけるかもしれないな、と。
そう思ったのだ。


【わんこと錬金術師】(事件編)につづく。















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